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* 全羅ビョンヨン城址


* 位置 : 康津郡ソンジョン面ウォルハ里 1174


指定番号 : 国宝 第13号
指定日 : 1962年 12月 20日
規模 : 正面 3間, 側面 3間
時代 : 李氏朝鮮時代

無為寺は、史蹟記によると新羅真平王39年(西紀617)ウォンヒョ大師によって最初は観音寺として創建されたと言われているが、明確な根拠はない。

ただ新羅時代から無為カプ寺と言う名前で呼ばれていたという事実は、境内に現存している先覚大師偏光塔碑銘によって知られている。

無為寺に現存する大部分の建物が四度目の重建である西紀1555年に建立されたことや、極楽殿だけは最近(1956年頃)実施した保守工事で、本尊の後壁の壁画銘文の中に、"十二丙申三月初吉火姓"という記録が判読されるため、火姓12年(西紀1476年)より前の建物と漠然と推定されていた。

しかし1983年屋蓋部以上の解体補修時に中央間の横木に "宣徳午年"という木署名が発見され、この建物が世宗12年(1430)に建立されたことが分かった。建物内部には全く柱がない広い空間を成し、内部の壁には多くの菩薩及び天人上を描いた壁画があるが、当時の人物画家であるオドジャの肉筆と伝わっている。


* ビョンヨン銀杏の木


* 位置 : 康津郡 ビョンヨン面 ソンドン里 70


指定番号 : 天然記念物 第385号
指定日 : 1997年 12月 31日
規模 : 2,825u(855坪)


ビョンヨン面の銀杏の木は康津邑から北東に14.8q離れたビョンヨン面所在地にある。この地域は高麗時代にドカン県の県庁があったところで、李氏朝鮮 太宗17年(1417年)にビョンヨンを設置し、兵馬節度使を置いたところでもある。

ここから銀杏の木は約500mほど離れた距離にある。銀杏の木はドンソン村の中央にそびえて村の象徴の木となっており、樹高30m、胴回り6.75m、幹の幅は中心から東側に16.5m、西側に13m、南側に10.9m、北側に3.5m伸びている。銀杏の木(Ginkgo biloba)は銀杏科に属し、中国が原産地の落葉喬木で長寿の木であるが、全羅南道和順イソ面の銀杏の木も天然記念物に指定されている。木の大きさが村の歴史性から見る時、樹齢は500年前後となるようである。

伝説によると、昔ある夏の季節に暴風が吹きすさび、大きな銀杏の木の大小の枝がたくさん折れてしまった。これを見た兵士が折れた大きな枝を城内に持ち込み、これで多くの家具を作った。この時木の枕も作りこれを兵士が使うようになった。ところが一体どうしたことだろう。

この木枕で寝た兵馬節度使はその日に病になりうめくようになった。いかしどんな有名な医者も病の原因を突き止めることができなかった。百薬が効かず最後には占い師を呼んで加持祈祷させ、占いもさせると木枕を兵士が使ったのに原因があるということだった。そのため、枝の折れた銀杏の木に祭祀を行ない、木枕を再びつなげるとその兵士は全快したという。そして、占い師の言葉に従いそのままにしていたら兵士の病はすっかり治った。いまでも銀杏の古木を良く見ると木の枕が入っているかのようにへこんでいるところが見えるという。


* 康津青瓷博物館


* 位置 : 全南 康津郡 大口面


康津の高麗青磁窯址は大口面一帯とチルリャン面サムフン里に散在している。 

1914年ここ高麗磁器窯址が広く知られて以来、世界で陶磁器に関心ある学者たちの耳目が集中している所でもある。

康津青磁窯址の核心は大口面である。大口面の中でも龍門川だが上流は龍雲里で、東北側の谷にジャンス寺があり、窯址はジャンス寺下の雲谷村から龍門川が海に流れ入って行く浜辺にまで散在している。龍雲里の窯は何個所かを除き10世紀後半頃から11世紀中葉までの間の初期窯址で、中国のウォルジュ窯、ヨ窯との関係思わせる破片が各窯址で散見される。

一方ゲッチ谷間を抜けて龍門川下流の広い野原を経ると沙堂里が現われるが、ここが高麗青磁の絶頂期にあった所である。高麗時代に一番良質の青磁を焼いた唯一の官窯地であることを証明する出土した青磁には、国立博物館所蔵の青磁瓦があり名声が高い。

青瓷資料博物館には、ホムケム市から寄贈されたハメル時代(1650年)のオランダの一般家庭と船員たちが使用した生活用品22点が展示されている。

博物館の周辺にある青瓷陶窯址では、直接に陶磁器が作れる体験場がある。


* 修仁山(スインサン)


* 位置 : 全南 康津郡 兵営面 城東里


修仁山は康津と長興の境界を成しており、その高さからは想像がつかない程の雄大で奥深い姿をしている。
山城で囲まれた頂上部は、高麗時代の末から朝鮮時代の末まで全羅兵営城の戦略的な要衝の地で、倭寇が侵略する度に住民たちの非難所として利用された。
ハメル一行が7年間生活した全羅兵営を見下ろすように位置しており、ハメル一行がよく登った山であるのではないかと推定されている。

寒い冬を過ごすためにボロボロの服を着て薪を刈りに行く時も、一行に対して好意的で、冒険談を楽しんだ和尚たちに会いに行く時も修仁山に登ったことであろう。

また、ハメル一行はいちょうの木の下に座って、遠くの修仁山を見つめながら故郷を懐かしみため息をついたことであろう。


* 兵営のハンコルモク


* 位置 : 全南 康津郡 兵営面 城東里


ハメル一行が7年間生活した全羅兵営城の周辺には、独特な方式の石垣がある。
兵営の「ハンコルモク」を中心に、「櫛目文様の石垣」が並んでいる村が広がっている。
韓国の他の地方では見られない「櫛目文様の石垣」で、一定のパターンで黄土を混ぜ合わせて積んだ形式で、ハメル一行が兵営で生活した当時に積んだものであると推測されている。


* ワボランケ博物館


* 位置 : 全羅南道 康津郡 兵営面 道龍里 596-1
* homepage : http://woaba.com.ne.kr


康津の兵営から長興側に2q程行った所に位置するワボランケ博物館は、この地域で生まれ育ったキム・ソンウ氏が運営する博物館である。
 郷土民俗品100余点、生活用品150余点、農業用品50余点などの失われつつある民俗品などが展示されており、若い学生たちには生きた歴史の体験場となり、年配の方たちには忘れていた幼い頃の夢のような郷愁を感じせせる所である。
ここの展示品は、直接に収集したり寄贈されたもので、展示場は思いでの宝箱のように素朴で情が溢れる。

この土地で収集された展示品の中には、独特な模様のノコギリやオランダの船舶に備えられていた修繕用工具、また韓国のものと非常によく似ている道具なども見ることができる。また、もしかしてハメル一行が滞在した痕跡ではないかと推測されたりもする。

 ワボランケ博物館の館長であるキム・ソンウ氏は、兵営で7年間生活したハメルについて数年間絶え間なく資料を収集してきたハメルの専門家で、ハメルについての話を直接に聞くこともできる。


* 申道里の海岸


* 位置 : 濟州島 南濟州郡 申道里


 1653年8月16日に,日本の長崎に向かったハメル一行は,Sperwer の難破により濟州島に漂着した.

南濟州郡申道里の海岸は,ハメル一行の漂着地として有力な所である.それは『地瀛?』という史料に收?されている「遮歸鎭下大也水」という所に漂着したという?容を根據にしている.
特に,申道里の海岸付近に「テムル」または「クンムル」という所があり,その可能性が高い.


* ハメル記念碑


* 位置 : 濟州島 南濟州郡 安コ面 沙溪里

 ハメル記念碑は,ヘンドリック ハメルの公コとオランダと韓國間の友好攝iの 票として,1980年4月1日に韓國國際文化協會と駐韓オランダ大使館によって浜 の丘に築かれた.
 ハメルは,1653年8月16日に嵐に遭って船が難破して濟州島に漂着した.そして13年間の韓國生活を「ハメルの報告書(漂流記)」として記述して,韓國を本格的に西洋諸國に えるきっかけとなった人物である.


* 濟州牧官衛



* 位置 : 濟州島 濟州市 三徒2洞 43-3


ホ−ムペ−ジ :
 1653年8月16日に濟州島に漂着したハメル一行は,21日に濟州牧(チェジュモク)に向かい出發し,22日に濟州牧に到着した.
濟州牧官衛で濟州牧使の李元鎭(イ ウォンジン)の尋問を受けた.
現在,濟州牧官衛は朝鮮時代の濟州地方の統治の中心地であった今の觀コ亭を含む周 一帶に分布しており,1993年3月30日に國家指定史跡第380 に指定されて管理されている.


* 大靜縣城


* 位置 : 濟州島 南濟州郡 大靜邑 保城里,仁城里,安城里

 1653年8月16日に濟州島に漂着したハメル一行は,21日に濟州牧官衛に移送されたのであるが,その日に4マイルを旅して夕方頃に到着した所が大靜(テジョン)であった.

ハメル一行は,ここ大靜縣で1夜を過ごした.
現在の大靜縣城は,濟州島記念物第12 (1971年8月26日指定)に指定されて,保護 管理されている.


* 濟州邑城


* 位置 : 濟州島 濟州市 二徒2洞


 濟州邑城はハメルの居住地であった.
よく配慮してくれた李元鎭(イ ウォンジン)牧使の任期が終わると,ハメル一行はここで外出と食糧が統制されて苦しい生活をしたが,1654年5月にソウルに移送された.

濟州邑城の築城年代は正確にはわからないが,耽羅(タムラ)國 時に築いた城を高麗時代に倭寇の防御用として補修したものと推定される.
現在は,一部の南水閣部分が150mくらい?元されている.

 


* 國立濟州博物館


* 位置 : 濟州島 濟州市 健入洞 261番地 (サムサソクロ 11)

http://jeju.museum.go.kr


 2001年6月15日に開館した國立濟州博物館は,美しい濟州島にある考古 ?史博物館である.
ここには濟州島の樣 な遺跡地で出土された遺物と,樣 な地域から收集してきた?史的な文物が中心に展示されている.

特に,ハメル時代の17世紀のホムケム市の地 や,ハメルの濟州島の漂着地が言及されている『地瀛?』などのハメル關連の昔の資料などが展示されている.

 


* 南漢山城


* 位置 : 京畿道 廣州市 中部面 山城里 南漢山


ホ−ムペ−ジ :
 ハメル一行は,ソウルに到着して何ヵ月も たない1654年8月に,國王の命令により大きな城がある所に移送されたとハメルは記述している.
Cの使臣が訪問しているので,ハメル一行を南漢(ナムハン)山城に隔離させたのである.
ハメルによれば,南漢山城は非常にしっかりとした要塞で,戰時には國王の非難所として使われたりもすると記述している.
現在の南漢山城は,1963年1月21日に史跡第57 に指定された.
ソウルから東南側に約24km離れた,廣州市中部面山城里にある南漢山城は,東 127度11分,北緯37度28分の地点に位置している.
總規模は,528,459uである.

 


* 全羅左水營


* 位置 : 全南 麗水市 君子洞

1663年3月から麗水(ヨス)に配置された一行12名は,全羅左水營で生活した.
赴任する左水使によりハメル一行に對する待遇も異ったが,その中で?道彬(イ ドビン)水使は非常によい官吏官であったという.
現在まで えられてきた全羅左水營城の唯一の建築物は鎭南館(チンナムクァン)である.

鎭南館の敷地は元 ,忠武公 李舜臣(イ スンシン)が全羅左水營の本營とした所である.
文祿の役以降の1599年に忠武公 李舜臣が後任し,統制使兼全羅左水使の李時言(イ シオン)が慶長の役の時に燒けたものを鎭海樓の敷地に建てた75間の大規模客舍である.

鎭南館は1959年5月30日に 物第324 に指定されたが,2001年4月17日にその重要性と 値が認定されて國 第304 に指定された.
鎭南館の左側にある碑石群には,?道彬(イ ドビン)水使の功績碑がある.


* ハメル 台


* 位置
: 全南 麗水市 鐘和洞


 麗水市鐘和洞の海 にハメル 台が建っている.
2005年3月に点 を開始したハメル 台は,1653年に濟州島に漂着してから13年と28日間を韓國で抑留されたハメルとの?を記念して命名された.

 ハメル一行は,1663年3月から麗水(ヨス)で生活して,その中の8名が1666年9月に?出に成功して日本に行った.
高さ10mのハメル 台は,光陽(クァンヤン)港と麗水港を行き來する船舶のために作られ,日が沈むと自動で光を放ち,5マイルほどを照らす.

 


* 南原城


* 位置 : 全北 南原市 東忠洞

 康津(カンジン)の全羅兵營城で生活したハメル一行は,1663年に麗水(ヨス)と順天(スンチョン),南原(ナモン)に分散配置された.
その中の5名が南原に割り てられたのであるが,彼らは南原城で生活したという.
一行の南原での生活についてはほとんど知られてはいないが,1666年にハメル一行の一部が?出する直前に,順天で生活していた航海士が南原を訪問したという記?がある.
最近,南原城の一部が?元されて,1982年11月3日に史跡第298 に指定されて管理されている.


* ハメル商船展示館


* 位置 : 濟州島 南濟州郡 安コ面 沙溪里 龍頭(ヨンモリ)海岸

 ハメルが乘ってきたSperwer と似た時期に造られた,帆船バタビア をモデルに再現した商船展示館である.
2003年に「ハメルの年」を迎え,350年前のハメル一行の業績を記念して作られた.
商船は,全長36.6m,幅7.8m,甲板の高さ11m,帆柱の高さ32mで,3層構成である.2002年の日 韓ワ−ルドカップ4?の神話と,その主役のヒディンク監督とハメル,そして17世紀の帆船での生活を見ることができる.



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