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HOME > ハメル情報館 > ハメル関連の年表



* 韓国側の史料による日時は、全て世紀に変えた。
* 『ハメルの報告書』の日時は、筆写本のままに収録。


年月日

?  容

1630年 

オランダのホムケム(Gorcum)市で出生。

1650年11月6日

オランダのTexel港を出発。

1651年7月4日

Vogel Struijs号の砲手としてバタビア(Batavia)に到着。

1653年

バタビアで船舶の航海維持と財務管理は勿論、財政を引き受ける帳簿係員に昇進。

1653年6月18日

Sperwer号に乗船してバタビアを出発。

1653年7月16日

Sperwer号に乗船して台湾に到着。

1653年7月30日

Sperwer号に乗船して日本に向かうために台湾を出発。

1653年8月11日

台湾と北方海域で嵐に遭う。14日まで嵐が続く。

1653年8月15日

非常に激しい嵐により船の一部分が破損。

1653年8月16日

夜中の1時頃に陸地を発見、その後すぐに船が破損し難破。

朝方に船長の死亡を確認。生存者36名。 

1653年8月17日

正午頃に、大砲の射程距離くらいで済州島民1名が一行を発見。その少し後に3名が一行に接近。

1653年8月18日

正午に1~2千名の騎・歩兵が一行を包囲する。夕方にそこが 33度32分上の済州島であることを確認。

1653年8月19日

Sperwer号の残骸を朝鮮人たちが片付ける。

1653年8月20日

Sperwer号の残骸を片付けていた途中で火薬が爆発。

1653年8月21日

ハメル一行を朝鮮の指揮官が呼び出す。一行の荷物を盗んだ朝鮮人を処罰。大静県に移動。

1653年8月22日

大静県を出発して明月鎭を経て済州牧に到着。済州牧師の李元鎭の尋問調査を受ける。夕方に光海君が配流された所に行き住む。

1653年10月29日

朴淵と初対面。

1653年10月30日

朴淵とハメル一行が再び対面し、朴淵は13歳のDenijs Govertszenという子供に故郷の便りを聞く。

1653年12月初旬

新しい済州牧師が赴任。 

1654年1月初旬

前任済州牧師の李元鎭がソウルに発つ。

1654年4月11日

李元鎭の進言により、ハメル一行のソウル移送と訓練都監配属が決定。

1654年4月末

済州島から逃げる計画を立てる。

1654年4月末

済州島から航海士一行5名が脱出を試みたが失敗。

1654年5月末

孝宗のハメル一行のソウル上京の命令書が到着。

1654年6月初旬

済州島を発ち海南に到着。

1654年6月26日

26日、または直前にソウルに到着。

1654年6月27日

ハメル一行に保証人を立てて、一般の民家に散らばって住む。

1654年8月

ハメル一行は、清の使臣がソウルに来たために南漢山城に移送。

1654年12月初旬

訓練大将の書状でSperwer号の船籍物であった皮を受ける。

1655年3月

清の使臣がソウルに来たために外出禁止命令が下される。

1655年4月21日

一行中のHendrik JanseとHendrik Janse Bosが、家を抜け出して清の使臣に本国への送還要請をする騒動が起る。

1655年5月30日

脱出騒動を起こした2名は5月30日以前に死亡。 

1655年6月

清の使臣が再び来た。

一行中の3名が済州島に漂着船が来たので、通訳のために移動。

1655年6月

脱出を試みた同僚2名が死亡したという便りを聞く。

1656年初

再び清の使臣が2回来て行った。

1656年3月初旬

ハメル一行は全羅道に行くためソウルを出発。

朴淵との最後の出会い。

1656年3月末

全羅道の康津の兵栄に到着。

1656年4月

放置されていたSperwer号の鹿皮を受ける。

1656年9月6日

ハメル一行が漂着した当時に持ってきた火縄銃で新しい火縄銃を作る。

1657年初

全羅兵使が職務上の過失により免職となるが、ソウルの高い位置の職に昇進。

1657年2月

新任の全羅兵使が赴任して来たが、一行を雑用で苦しめる。

1657年9月

新任兵使が心臓麻痺で死亡。

1658年初

全羅兵使が転出されて新任の兵使が到着。

1659年4月

孝宗が崩御し、顯宗が後を引き継ぐ。

1660年初

全羅兵使が交代。

1662年

厳しい日照りで朝鮮人が数千名死亡。

1662年3月9日

全羅兵使の?泰淵の報告を通して、康津から他の郡に移送させることを朝廷で許可(『顯宗実録』)。即ち、全羅道内で分散居住が決定。『ハメルの報告書』には、2月の末に左水営、順天、南原に移送決定が下ったと記録されている。

1663年3月初

康津の兵栄から左水営、順天、南原に分散移動。

1663年3月中旬

ハメルと同僚12名が、麗水左水営に居住。

1664年

ハメルは麗水で続けて生活。 

1665年

帆船を購入するために多くの努力を傾けるが、見事に失敗。

1666年7月

新任の地方官が赴任。脱出のための船舶を購入。 

1666年9月4日

脱出を隠すために一行が楽しく遊んでいるふりをする。

この日、日が暮れると脱出を敢行。

1666年9月5日

南東側に向かい航海を続ける。

1666年9月6日

日本の平?の付近に到着。

1666年9月7日

日本の五島列島付近に到着。

1666年9月8日

日本人たちに発見され、彼らによって連行される。そこは五島の中の上五島の?摩という村であった。

1666年9月9日

9日から11日まで船の中で厳重な見張りを受ける。 

1666年9月12日

長崎に行くのに必要な装備を備え、付近の漁村に碇泊。 

1666年9月13日

朝に出発して夕方頃に長崎に到着。

1666年9月14日

長崎港に上陸して長崎奉行の調査を受ける。そこで当時の長崎商館長であったWillem Volger商館長とその他のオランダの常務員に出会う。

1666年10月1日

Willem Volger商館長は出島を出発し、その月の23日に日本海峡を出発。

1666年10月25日

再び長崎奉行の再尋問を受ける。

1666年11月19日

倭舘にいた差倭(日本側の使節)の橘成陳が、ハメル一行が朝鮮から日本に脱出したので、近いうちに日本側から問い合わせがあるであろうと言及。橘成陳は日本名で井手彌?左衛門である。朝廷でもハメル一行の脱出事件を知る。

1666年11月20日

備辺司は、ハメルなど8名が日本の五島に脱出したにも関わらず、まだ地方官吏から報告がないと非常に驚き、この脱出事件の真相を調査し処理することを進言。

1666年11月22日

ハメル一行の脱出を領議政と承旨が確認して進言し、この事件を報告しなかった全羅道の地方官に処罰を決定。

1666年12月20日

ハメル一行に対する全羅監査の報告と地方官の処罰を決定。

1667年3月20日

ハメル一行の脱出により、日本側の使節を接待するためにキ・ソクジュを派遣。 

1667年4月14日

長崎のオランダ商館長のDiniel Sixは、日本人の通訳を通じて再び長崎奉行に彼らの救出要請についての手紙を送る。

1667年10月22日 

長崎奉行がハメル一行に日本を発ってもよいという許可を下す。

1667年10月23日 

ハメル一行は長崎を出発して日本を発つ。

1667年11月28日 

ハメル一行はバタビアに到着。

1667年12月23日

残留オランダ人中の1名が病死。

1668年 

Corea号を建造。

1668年5月13日

残留オランダ人に対する日本送還が決定し、彼らに衣服が支給され、引き渡し方法も決定された。 

1668年5月21日

残留オランダ人7名が全羅道から慶?道に移される。 

1668年7月20日

ハメルを除いた7名の同僚の第1陣がオランダに到着。

1668年7月26日

残留オランダ人7名が釜山を出発して對馬に到着。

1668年8月4日

対馬側が残留オランダ人に食べ物と朝鮮の青銅14貫匁と白布24疋、そして綿の入った衣服を1着ずつ支給。

1668年8月10日 

残留オランダ人7名が長崎に到着。

1668年10月27日 

残留オランダ人7名はNieuwpoort号に乗り長崎を出発。

1669年5月20日

Corea号がオランダのWiehngenを出航。

1669年12月10日 

Corea号が喜望峰のケープタウンに到着。

1670年4月2日

Corea号がバタビアに到着。

1670年8月29日

ハメルが「17人委員会」に朝鮮滞在期間に受け取れなかった賠償金を申請。 

1679年11月15日 

Corea号がバタビアで廃棄処分。

1692年2月12日

ハメルが死亡。当時未婚であった。

1705年10月13日

ハメル一行が漂着した当時のSperwer号の船籍物であった大砲が、紅夷砲などに改造されることが決定。 

1707年3月24日

一行の大砲1門は、他の兵器に鋳造しても特別なものができないと残した。

 

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