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HOME > ハメル情報館 > ハメル一行と 外交關係 > 殘留人の日本送還と歸國



残留オランダ人たちの日本送還の決定により、ハメル一行8名が脱出した後にも朝鮮に残っていたオランダ人たちは南原(ナモン)に集結し、禮曹判書が進言した通りの衣服が支給された。

  長崎商館日誌(Dagregister Nagasaki)』(1668. 14 Augustus)によると、当時朝鮮から支給されたものは、衣服と10斤の米、反物2枚、そしてその他の物品などであり、これを見ると、当時の朝鮮と日本の間での漂流民送還は漂流民救済制度の中で行われていたことが推測できる。 

朝鮮残留オランダ人の送還承諾の返信は、4月に差倭に伝えられ、送還は6月に行われた。

8名の残留オランダ人の中で1名が死亡したため、7名が日本に送還された。

長崎に到着した7名は、長崎奉行の尋問を受けた後に出島のオランダ商館に送られ、その後日本を発ってバタビア商館を経て本国に帰国した。

残留オランダ人7名は、日本出発の許可を得て1668年10月27日にNieuwpoort号に乗って長崎を発ち、途中で一緒に発ったBuijenskerck号に乗り換えて帰国した。 

Buijenskerck号は11月30日にバタビアに到着し、Buijenskerck号はCoromandelを経由して1669年4月8日にバタビアに到着した。(『Hoetink版』p.]XU) 

バタビアに到着した7人は、先に脱出してバタビアに残っていたヘンドリック・ハメルと合流して1970年に本国に帰国した。 

本国に到着してからの1670年8月29日には、ハメルより先に本国に帰国した7名と同様に、VOC(オランダ連合東インド会社)の「17人委員会」に朝鮮で滞在していた期間にもらえなかった給料を要請している記述がある。その記述には、先に帰国した7名に給料を支給した前例に従い、ハメルと残留オランダ人たちにも給料が支給されるであろうという内容で、彼らにも給料が支給されたと推測される。 

これで、1653年8月に朝鮮に漂着して1670年に全員がオランダの本国に送還されるまでの約17余年間に渡る、日本・朝鮮・オランダの3国間の外交問題を歴史に刻んだオランダ人の朝鮮漂着事件の幕を降ろしたのである。

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