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長崎奉行が最初に会見の際に私たちに対して行った質問と、それぞれの質問の次に記したとおりに私たちが行った答弁。

1)第一に、諸君はどこ国で、またどこから来たか。

私たちはオランダ人で、コレーから参りました。

2)諸君はどのようにして、また何という船で同地に行ったのか。

私たちは1653年8月16日にヤハと船デ・スペルウエェール号で、5日間続いた嵐のために難破したのです。

3)船が難破したのはどこか。また乗組員は何人で、砲は何門搭載していたのか。

私たちがケルパールツと呼び、コレー人がチェス(済州)と呼ぶ島で、乗組員は64名、砲は30門でした。

4)ケルパールツ島は本土からどのぐらい離れているのか。また様子はどうか。

本土の南約10ないし12マイルのところにあり、人口がたいへん多く、豊かです。周囲は15マイルあります。

5)諸君はその船でどこから来たのか。またどこかに立ち寄ったことがあるか。

私たちは同年6月8日にバタビアからに向かい、同地の長官としてフェルブルク閣下と交代させるためにカエザル閣下を乗せていました。

6)積み荷は何で、それを積んでどこに行こうとしていたのか。また誰が当時当地の商館長であったか。

私たちはタイワンを出発して日本に向かう予定で、鹿皮、砂糖、沈香そのほかの物品を積荷していました。またコイエット閣下が当時商館長の任にありました。

7)乗組員、物品及び砲はどのぐらい助かったか。

28名の乗組員が志望し、物品と大砲は失われましたが、後にそれらの中で値打のない品々が若干引き上げられました。その処置について知りません。

8)船が難破した後で、彼らは諸君に何をしたのか。

私たちを牢屋にいれて、丁寧に取り扱い、私たちに飲食物をくれました。

9)諸君はシナ人やそのほかの人々のジャンクを拿捕したり、またシナの海岸を略奪する命令を受けていたかどうか。

日本に直行するだけを受けていましたが、嵐のために朝鮮の海岸を漂流したのです。

10)諸君はキリスト教徒あるいはオランダ人以外の国民を船に乗せていたかどうか。

会社の使用人だけです。

11)諸君は島にどのぐらいの期間いたのか。そしてそこからどこへ連れていかれたのか。

約10ヶ月島に滞在していた後に、国王から宮廷に呼び出されました。国王は宮廷をシオル市に持っています。

12)済州島からシオル市までどのぐらいの距離があるか。また諸君は何日ぐらい旅行したか。

済州等は前に申し上げましたように本土から10ないし12マイルのところにあります。そのときはさらに馬で14日間旅行しました。陸路と水路とを会わせて約90マイルの距離にあります。

13)諸君はどのくらいの期間首都に住んでいたのか。その間何をしていたのか。また国王は諸君に何を給与として与えていたのか。

私たちは彼らの習慣いしたがって同地に3年間留り、司令官の護衛兵に津変わられ、各自月70斤の米を給与として受け、また若干の衣服の給与がありました。

14)何が原因で原因で国王は諸君を同地から送り出したのか。またどこへ送り出されたのか。

私たちの一等航海士とほかの一人がタルタル人のところに走って、中国を経由して私たちの同胞のところに達しようとしましたが、失敗してしまいましたので、国王は私たちを全羅道に追放したのです。

15)タツタル人の所に走った同僚はどこへ行ってしまったか。

彼らは直ちに牢屋に入れられました。私たちは彼らが殺されたか、それとも死亡したかはたしかには知りません。このように真相はつかめませんでした。

16)諸君はコレーの国の大きさを知っているか。

コレーは私たちの想像では南北の長さは約140ないし150マイルで、東西の幅は7?80マイルです。それは8つの州と360の都市に分けられ、また大小の多くの島があります。

17)同地で諸君はキリスト教徒あるいはほかの外国人に会わなかったか。

オランダ人ヤン?ヤンセだけでした。彼は1627年にヤハと船でタイワンかわ日本に向かっていた時に、嵐のためにこの海岸に漂流し、飲料水の欠乏にせまられてポートで海岸に近寄ったところ、同地の人々に同僚2人と一緒に捕らえられました。しかし2人同僚はタルタル人が国土を占領したときの戦争で死んでしまいました。このほかに若干の中国人がいますが、彼らは戦乱のために同地に逃げてきている者です。

18)そのヤン?ヤンセはまだ生存しているか。また彼はどこに住んでいるのか。

彼が生きているかどうか、確なことは存じません。彼にはこの10年間会って居りません。また彼は宮廷に住んでおりましたが、あるものは彼がまだ生きていると言いますし、本科のものは死んでしまったと言います。

19)彼らの銃と武器はどのようであるか。

彼れらの銃は火縄銃で、また刀剣、弓箭、および若干の小さな砲を持っています。

20)コレーには城と砦があるかどうか。

都市はわずかの抵抗力しかなく、山頂にいくつかのぼうろう堡壘があり、彼らは戦争時はそこに逃げ込みます。そこにはつねに3年分の食糧備えられています。

21)彼らは海にどんな戦争用のジャンク船を持っているか。

各都市はそれぞれ1隻の戦争用ジャンクを海に備えなければならず、それらの各々には、漕手と兵士と両方で2?300名を乗せ、若干の小さい砲を乗せています。

22)人々は戦争をしているかどうか。またどこかの国王に貢物を送っているかどうか。

戦争はしていません。タツタル人は年2?3回貢物を取り立てにやってきます。また同時に日本にも貢物を送っていますが、どのぐらいかは私たちにはわかりません。

23)彼らは何を信仰しているか。また彼らは諸君にそれを改宗するように求めたか。

私たちの考えでは彼らはシナ人のそれと同じ信仰を持っています。彼らの習慣で誰をもそれには引き入れず、各人それぞれの考えに任せています。

24)彼らは多くの寺院と偶像とを持っているかどうか。またそれらはどのように礼拝されるか。

山の中に多くの寺院と修道院があり、そのなかに多くの偶像があり、私たちの考えによればシナ風に礼拝されています。

25)大勢の僧侶がいるかどうか。また彼らはどのように頭を刈り、またどのような衣服をつけているか。

僧侶は非常に大勢います。彼らは食糧を労働と物乞いとで手にいれなければなりません。彼らの衣服と削髮とは日本人の総量のそれと同じです。

26)大官や一般の人々はどのような衣服をつけているか。

大部分の人々はシナ風の衣服をつけています。また馬の毛や牛の毛あるいは竹で作った帽子をかぶり、靴下とをはいています。

27)米やそのほかの濃く物がだくさん産出するかどうか。

あめの多いとしには何部では米屋そのほかの濃く物が豊富に産します。というのは収穫はもっぱらあめにかかっているからです。あめのふらない年には大飢饉が怒ります。そして1660年、61年、62年のように何千人物人々が餓死します。同地ではまた大量の木綿を産します。しかし北部では大麦にしなければなりません。というのは、同地では米は寒さのために育たないからです。

28)馬や牛がたくさんいるかどうか。

馬はたくさんいます。牛は2、3年この方伝染病のために減少してまだその状態が続いております。
29)コレーでは外国人が来て、貿易をしているかどうか。また彼らがどこかほかの場所で貿易を行っているかどうか。

この国(日本)の人々以外には貿易には来ません。日本時は同地に商館を持っています。また朝鮮人はシナの北部と北京とで取引を行っています。

30)諸君は日本商館を訪ねられていたかどうか。

そのことは私たちに対してはっきりと禁止されていました。

31)彼らは何を媒介にして取引するのか。
首都では大官は多くの取引を銀で行います。一般の人々は、ほかの都市でも同じですが、それぞれの価格に応じて布や米やそのほかの穀物で取引をします。

32)彼らはシナで何の取引を行っているか。

彼らは同地に人参根や銀やその他の器物を持って行って、生糸などの私たちが日本に持ってくるのと同じような品物を入手します。

33)銀鉱やその他の鉱山があるかどうか。

かなり前から金鉱が開かれ、国王がその1/4を取ります。しかし他の鉱山については聞いたことがありません。

34)彼らはどうやって人参根を発見し、それを何に使い、またどこへ輸出するのか。

人参根は北部地方に発見され、彼らにとって薬として用いられ、毎年タルタルに貢物として送られ、商人によってシナと日本とに輸出されます。

35)シナとコレーとはお互いに陸続きであるという事を聞いたことはないか。

彼らの言うところによりますと、両者は大きな山脈で境を接しており、それは冬は寒さのため、また夏は害獣のために旅行は危険です。そのため大部分の者は水路をとるか、冬に安全のために氷の上を通行します。

36)コレーでは総督の任命はどのようにして行われるか。

各州の太守は毎年、普通の総督は三年ことに交代させられます。

37)全羅道では諸君はどのくらい一緒に住んでいたか。また食糧と衣服とはどこから入手していたか。同地では何名が死亡したか。

私たちは兵使の町で約7ヶ月間一緒に住んでいました。彼らは私たちに毎月給与として50金の米を支給し、衣服と副食物とは善意の人々から手に入れなければなりませんでした。この期間に11名が死亡しました。

38)諸君はなぜさらに他の場所に送られたのか。またそれは何と言うところか。

1660年、61年、62年には雨が少しもふらなかったため、一つの町では私たちの給与を賄うことができず、国王は1662年に私たちを三つの町、すなわち節度使営に12名、順川に5名、南原に5名、と分けたのです。これらの町はみんな全羅道のなかにあります。

39)全羅道はどのくらいの大きさで、どこに位置しておるのか。

それは何部の州で52の都市があります。もっとも人口が多い州で、食糧の豊かなことで群を抜いています。

40)国王が諸君を釈放したのか。それとも諸君が脱走したのか。

私たちは国王が私たちを釈放しないだろうと言うことを良く知っており、状況をみて8人で、脱走を実行することに決心したのです。それは異教徒の国に心配しながら生きているよりは、むしろ一思いに死んでしまった方が良いと考えたからです。

41)諸君はまた何名が健在であったまた他の人々に脱走のことを知らせてから脱走したかどうか。

私たちは16名健在でした。他の8名には前もって知らせてはありませんでした。

42)諸君はなぜ彼らに前もって予告しておかなかったか。

それは私たちは一緒に同行できなかったからです。というのは名月1日と15日とにはそれぞれの町の総督の所に出頭しなければならず、また外出するためには順番に許可を得なければならなかったからです。

43)彼らがそこから当地にこられるかどうか。

皇帝が彼らについて国王に手紙を書けば、彼らは私のところに来ることができるでしょう。というのは、将軍は毎年漂着してくる国民を送り返しているので、国王は敢えてこれを拒絶しようとはしないであるからです。

44)諸君はこの他にも脱走したことがあるか。またなぜ2回も失敗したのか。

これは3回目です。はじめての2回は次のように失敗しました。第1回目はケルパールツ島で、彼らの船のようすを良く知らず、マスとを2回も倒してしまいました。また首都でタルタル人に頼んだときには、使節が国王に買収されたために失敗しました。

45)諸君は諸君を釈放してくれるように国王に懇願したことがあるかどうか。また国王はなぜそれを拒絶したのか。

私たちはこのことは国王や国王顧問官たちにしばしば申し出ましたが、いつも他の国民に彼らの国を知られたくないために外国人を国外に出さないのだという答えを聞くばかりでした。

46)諸君はどうして諸君の船を手にいれたのか。

私たちは物乞いをして多額の物を貯え、それによって船を買い入れたのです。

47)諸君は他に船を持っていたかどうか。

これは3隻目の船で、他の船は日本に脱走するために小さすぎたのす。

48)諸君はどこから脱走してきたのか。またそこに住んでいたかどうか。

私たちは水軍節度使営から脱走してきましたが、そこには私たち5人が住み、他の3人は順川に住んでいました。

49)諸君が出発したところからどのくらいの距離があって、途中どのくらい航海したのか。

サイシンは私たちの想像では長崎から約50マイルのところにあるようです。私たちは五島に到着するまでに3日間航海し、五島に4日滞在して、五島から当地まで2日間航海しました。以上、合計9日間です。

50)諸君はなぜ五島に到着したのか。また我々が言ったときになぜ逃げ出そうとしたのか。

嵐のために余儀なくそこに寄港したので、天候が少し良くなってきたら長崎へ航海を続けようとしていたからです。

51)五島の人々は諸君をどのように取り扱い、また待遇したか。また彼らはその代償として何かを要求したり手にいれたりしたことはなかったか。

彼らは私たちの仲間の2人を陸上に連行しましたが、私たちにはよいことばかりをし、その代償として何も要求しませんでした。手にいれたこともありません。

52)諸君の誰かが日本に来たことがあるか。またどのようにして諸君は航路を知ったか。

誰も来たことはありません。航路は長崎に来たことのあるコレー人から教えられました。そして針路は私たちの舵手がはなしていたのをまだ若干覚えていましたので、それに従いました。

53)また同地にいる人々の姓名、年齢、航海していたときの任務及び現在の居住地。

ヨハニス.ラムペン、助手、36歳。
 ヘンドリック.ン掌帆下士官、37歳。
ヤン.クラースゼン、コック、49歳。
以上は南原の町に住んでいます。
アントニイ?.ルデリック、砲手、32歳。
クラエス.アレンツゼン、給仕、27歳。

54)諸君の姓名、年齢及び船上での配置について。

ヘンドリック.ハメル、書記、36歳。
ホヴェルト.デニスゼン、操舵手、47歳。
マテウス.エイボッケン、下級船医、32歳。
ヤン.ピーテルセン、砲手、36歳。
ヘリット.ヤンセン、砲手、32歳。
コルネリス.デイィルクセン、水夫、31歳。
ベネディクトウス.クレルク、給仕、27歳。
デニス?ホフェルッセン、給仕、25歳。

1666年9月14日に私たちは以上のように、質問を受け、またここに書かれてあるように答えました。

 

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