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ハメル一行は1657年に全羅道の康津(カンジン)に到着した。  彼らが到着した当時の全羅兵栄は、職務上の過失により罷職の危機にあったが、多くの人々から慕われ、また名門家の出身地であると同時に朝廷の大臣たちの弁護があり、王の特別な赦免を受けた、と『ハメルの報告書』に記述されている。  この時の兵使は?廷益(ユ・チョンイッ)で、ハメルは?廷益に対して非常に友好的な評価をしている。


1957年2月に新任の全羅兵使が赴任したが、前任者とは全く違い、ハメル一行に強圧的な対処をした。  以前には燃料は無料であったが、それらの特恵を全て無効にし、むしろ様々な雑用を命じ一行を苦しめた。 

しかし、9月に新任の全羅兵使が心臓麻痺で急死したために抑圧から逃れることができた。また、兵栄の人々も彼の悪政を非難していて、彼が死んだことを幸に思うくらいであった、とハメルは記述している。 

1957年11月に新しい兵使が到着した。 

幸であるのか不幸であるのか、その兵使はハメル一行に対しては全く無関心であった。服やその他の様々なことの事情を申し出ても、孝宗が彼らに支給を約束した50斤の米以外には、何の指示も受けていないと申し出を断わり、もっと必要なものがあれば自分たちで何とかしろという風であった。冬が近づいていたが、彼らの衣服は薪を刈りに山に行く作業によりボロボロになったものばかりであった。 

しかし、康津兵栄生活はある面ではハメル一行には自由そのものであった。 

済州島やソウルでは監視と統制の中で生活したが、ここでは彼らは行きたい所があればいつでも兵使の許可さえあれば行くことができた。 

『ハメルの報告書』には、朝鮮で生活に苦しくなれば物乞いをし、自分たちの冒険談を話してその代価としてお金をもらったと記述されている。そして、物乞いで得た収入で越冬準備に必要な様々な物品を購入したのである。

しかし面白いことは、一行が冒険談を話し収入を得たということであるが、 彼らは1653年に漂着して約4年後の1657年には、既に朝鮮語が話せるようになっていたということがわかる。

即ち、朝鮮の人々と朝鮮語で意思疎通ができ、更には冒険談で収入を得るくらい話上手になっていたということは、既に彼らは朝鮮の生活に慣れていたということがわかる。

1658年の年始に兵使が転出し、他の兵使が任命された。 

新任の兵使は、一行に再び外出を禁止し、1年に4枚くらいの反物を与える条件で使役をすることを指示した。 

しかし、日照りで物価が暴騰したのにその代価があまりにも少ないために、その提案を丁寧に断わった。また、ハメル一行は交代で15日ないし20日間の旅行ができるようにしてほしいとひたすら頼み続け、その末に承諾を得た。その承諾には、一行たちの間に熱病が広がっていたので、家に残る者たちが病者を看護するということと、絶対にソウルと日本人たちが居留する近所には行かないことなどの条件があった。 

ハメルは、1659年4月に孝宗が崩御し、世子の顯宗がその王位を引き継いだという事実を記述しており、1657年から1662年までの康津生活については特別な問題はなく非常に自由な生活をしたと記述している。 

特に、康津の付近の寺に対してのハメルの評価は非常に友好的である。 

彼らは和尚たちから多くの徳を得、また和尚たちは外国の風物に深い関心を示し、他の国の風習を話す時には手厚くもてなしてくれたと記述している。 

もしも、ハメル一行が大丈夫であると言えば、彼らはそれらの話を徹夜で聞いても満足できないくらいであったとハメルは記述している。

1660年の初旬にまた他の兵使が赴任されて来たが、その兵使は一行に非常に同情的な人で、自分に権限があればハメル一行を故国に送ってあげたいと度々言及した。 

しかし、この年から思いがけない不幸がハメル一行を待っていたのである。 

即ち、朝鮮全域が非常に厳しい日照りとなったのである。 

『ハメルの報告書』によれば、1662年は刈入れ時の前に千余名が飢饉で亡くなり、辻強盗が横行して恐ろしくて外に出ることすらできなかったと記述している。 

この時には、警備が非常に厳しく実施されたが、それは強盗と殺人の立ち回りを防止し、道端に散在している死体を収拾するためであった。時には、国家の倉庫を襲撃して備蓄してある軍糧米を奪い取るなどの事件もあり、あらゆる所で被害があった。 

このような飢饉は、1662年の初旬まで約3年に渡って続いたが、国民たちは収穫がないために苗を植えることすらできなかった。 

なので、当時の全羅兵使は、ハメル一行に支給してきた穀物をこれ以上配給できないということを全羅道の觀察使に報告した。 

その年の2月の末に上からの指示を受けたが、その内容は麗水(ヨス・Saijsingh)左水營に12名、順天(スンチョン・Suintchien)に5名、南原(ナモン・Namman)に5名を各々分散収容するようにとのことであった。

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