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HOME > ハメル情報館 > 全羅兵營生活 > 康津配流の理由



朝鮮は、ハメル一行中の2名による脱出事件を、清の使臣に賄賂を送って解決した後にも、ハメル一行の処理に関して論議を続けた。脱出事件のようなことが再発すれば、朝鮮政府が再び困難な状況に陥ることを心配していたからである。 

『ハメルの報告書』によると、一部の高位の官吏は、一行に武器を与えて死ぬまで争わせれば、王が外国人を露骨的に殺害したという怨声を聞くことはないであろうという提案もあったと記述している。 

当時、 ? 坪大君(インピョンテグン:孝宗の3番目の息子)が朝廷に行く時には、ハメル一行が住んでいた所を通らなければならなかったのであるが、ちょうど?坪大君がそこを通る時に、ハメル一行が自分たちを助けてほしいと哀願し、その直後に?坪大君が孝宗に進言したことによりハメル一行を処罰しようという主張が強かったにも関わらずに彼らは生き残ることができた。  しかし、脱出事件のような問題が再発する恐れがあったので、彼らは全羅道(チョンラド)に配流されることになったのである。 

従って、1656年3月の初旬に、ハメル一行はソウルを出発して全羅道に向かった。 漢江岸で朴淵(朴燕:パク・ヨン)と別れたのであるが、それが朴淵とハメル一行の最後の出会いとなった。 

ハメル一行は、済州島からソウルに移送された時に利用した道を、もう1度逆に下って行き、霊岩(ヨンアム)を経て目的地の全羅兵栄に到着した。1653年に漂着した当時には36名であったが、ソウルに移送される途中に霊岩で1人が死亡し、また脱出事件で2人が死亡したので、この時の一行の生存者は33名であった。

では、なぜ彼らは面倒な存在であったのか? 

それは、脱出騒動を起こして朝鮮と清との関係の対外的な問題を起こしていたし、またもう1つの重要な理由は、日本が1644年にキリスト教禁制政策の一環として、万一、朝鮮に正体不明の異国船が入ってきたら全員捕まえて倭館に送るようにとの要請があったためである。 

従って朝鮮は、これらの問題点を消滅させるために全羅道にハメル一行を配流させ、彼らの存在を隠そうとしたのである。

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