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HOME > ハメル情報館 > ソウル生活 > 朴淵の紅夷砲製作



ハメル一行と朴淵のソウル生活を語るときに欠かせないことは、先ず、彼ら西洋の異国人は訓練都監に配属されて朝鮮の武器開発に大きく貢献したということであろう。 

最も代表的なのは、朴淵の紅夷砲の製作である。 


西洋の異国人が朝鮮に漂着した時、朝鮮政府の人道主義的な次元で彼らのソウル上京と訓練都監への配属が行われたが、実はその他にも目的があった。

当時の朝鮮は、文禄の役と慶長の役により全国土が荒廃しており、その傷が癒される間もなく国内で李?の乱が起り、また北方では相変わらず興起していた。その後、2回に渡る丁卯胡亂と丙子胡亂で清の侵略を受けていたために、17世紀の後半まで混乱を重ねていた。 

その後、朝鮮では仁祖の後を継いで即位した孝宗が、朝鮮と先王の屈辱を払うために北伐計画を推進し、それを何よりも重要な対外政策の1つとして強力に主導した。 

北伐政策が強化されるにつれ、軍事力の増強のために朝鮮の兵器改良は何よりも急務となり、外来の先進的な技術の導入を必要とした。

当時の訓練都監は、元々戦争に必要な銃砲の取り扱いと練習及び射撃訓練に重点を置いていた機関ではあったが、朝鮮の兵器開発のために新技術を導入する1つの手段として、朴淵のような西洋の異国人を配属させていた。

朴淵が紅夷砲の製作に参与したように、ハメル一行も西洋式武器の開発に参与したのであろうか?

多くの研究者たちの間では、17世紀の朝鮮で行われた西洋式の武器開発について、漠然とハメル一行が関与したと見る傾向がある。 

しかし、ハメル一行が訓練都監の火縄銃の開発に参与したという明確な史料がないことだけではなく、火縄銃が作られた1656年7月の時点は彼らは既に全羅道に配流されていた。 

『ハメルの報告書』によると、彼らは1656年2月初旬頃に朴淵と漢江岸で離別し、全羅道に向かいソウルを発ったと記述されている。 

言い直せば、時期的にも、また朝鮮のハメル一行に対する認識の程度から見ても、彼らが火縄銃を作ったり新式の火縄銃の製作に関与する機会が全くなかったのである。 

 

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