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ハメル一行は、1654年6月26日またはその直前にソウルに到着した。 彼らは1654年4月11に、済州島に漂着した当時の済州牧師であった李元鎭(イ・ウォンジン)の進言によりソウル上京が決定し、また孝宗により訓練都監に配属が決定された状態であった。(『備辺司謄?』孝宗5年2月24日)



東大門運動場(朝鮮時代に訓練都監があった場所)

『ハメルの報告書』には、ソウルに到着してからは先ず司訳院で2~3日間同僚たちと共に過ごし、その後は1件の家に2、3名、または4名ずつに分かれて中国から逃げてソウルに住んでいる中国人たちと共に生活するようになったと記述されている。ここで言う中国人とは、中国語の通訳士のことである。 

ハメル一行は、朴淵(朴燕:パク・ヨン)が勤務している訓練都監の外人部隊に配属され軍人としての生活を始めた。 

『ハメルの報告書』によれば、ハメル一行は王の命令により訓練大将麾下の 護衛兵になったという。

当時の訓練大将は李浣(イ・ワン)で、その代価として毎月1人当り約70斤に該当する米を支給された。 

そして、彼らはオランダ名の代りに朝鮮式の名前と年、そして外国人であるということを証明する丸い木の板を与えられた。また同時に、火縄銃1挺と火薬、銃丸も支給された。 

ここで言う丸い木の板というのは、言うまでもなく號牌である。即ち、彼らはこの時から朝鮮人としての人生が始まったのである。実際に彼らの中には、「南北山」や「南二安」という朝鮮式の名前を持つ者がいた。



朝鮮時代の號牌

ハメル一行は、朝鮮の人々とは異り、青い目に白い顔、そして赤茶色の髪の毛を持つ長身であった。 

当時の朝鮮人たちの目には、まさに奇怪この上ないことであったはずである。勿論、朴淵というオランダ人が1627年から朝鮮に滞在してはいたが、1人、2人でもなく35人もソウルにいるということは朝鮮の人々たちには驚きであり、また珍しい一種の見ものであった。

なので、『孝宗実録』の孝宗4年8月の戊?條と『ハメルの報告書』によると、孝宗は時々一行を宮廷に呼んでオランダの古典の踊りや歌、また妙技や自慢藝を披露するように命じたりもした。 

その上、孝宗のみならずソウルの高位の官僚たちも一行をよく呼んだが、それは彼らの婦人や子供たちがハメル一行を見たくてすがったためであった。 

そのような状況であったために、ハメル一行はソウルに滞在する間は思い通りに外出することができなかったくらいであった。

ソウルに到着して何ヵ月も経たない1654年の8月に、彼らは国王の命令で大きな城がある所に移送されたとハメルは記述している。 

そこは即ち南漢山城で、清の使臣がソウルに来たためである。 

1627年と1636年の2回に渡る清の侵略で、朝鮮は清の朝貢・册封体制の下に編入され、清による外交的な干渉を受けるようになった。 

従って、ハメル一行のようなオランダ人が、それも35名もソウルに滞在しているということが知られると、朝鮮政府の立場としては、彼らの漂着を清に知らせなかったこと、そしてなぜ西洋の異国人をソウルに滞在させているのかについての不必要な説明をしなければならないので、ソウル近郊の南漢山城に移送して徹底した監視をさせたのである。


南漢山城

12月には非常に寒さが厳しかったので、ハメル一行を哀れに思った訓練大将は王に書状を送り、彼らが済州島に漂着した時のSperwer号の貨物であった鹿皮が支給されたが、既に鹿皮は腐ったり虫に食われていた。 

しまし、その中でも使えそうなものを選んで売って、寒さを忍ぶための品物を購入することを許されたが、一行はその収入で家を買うことにした。なぜならば、その時に住んでいた家の主人が、冬の非常に厳しい寒さの中にも関わらず、薪用の木を刈ってくるようにと毎日3マイル以上の山道を往復せねばならない苦痛を与えたからである。 

結局、彼らは各者が資金を出し合って、ソウルに小さな家を買い、残りのお金で服を買ってその年の冬を克服した。


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