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HOME > ハメル情報館 > 漂着と濟州生活 > 朴淵との出會い



ハメル一行が済州島滞在中に驚くべき事実が1つあった。 

それは、同胞であるオランダ人の朴淵(パク・ヨン/J.J.Weltevree)が、1627年に朝鮮に既に漂着していて、また自分たちの通訳のためにソウルから済州島に派遣されたということである。 

異国の地に漂着して自分たちの同胞に出会ったハメル一行も感激したであろうが、1627年に漂着して約27年後に同胞に出会った朴淵の心は更に感激で一杯であったであろう。 

実際に、『地瀛?』と『ハメルの報告書』には、そのような様子が詳細に記録されており、その出会いの様子を『孝宗實?』の記録を通じて見てみよう。

- 『孝宗實?』、孝宗4年8月戊?條

 済州牧師の李元鎭(イ・ウォンジン)が言うには、「1隻の船が済州島の南の方から来て壊れて海岸に浮いているので、大静県監の權克中(クォン・クックジュン)と判官の?錠(ノ・ジョン)と共に兵士を連れて行ってみた。どこの国の人たちであるのかはわからないが、船が海の真ん中で転覆して生存者が38名いた。言葉が通じなく、使う文字も違う。 

船の中には、薬剤や鹿皮などの品物がたくさん積まれており、木香94苞、竜脳4壺、鹿皮が2万7千ほどあった。 

目が青く、鼻は高く、髪の毛は黄色で、ヒゲは短かいか頬ヒゲは剃り鼻ヒゲだけを残している者もいた。服は長くて太股のあたりまであり、裾は4つに分かれており、襟の横と袖は紐で結ばれており、ズボンはシワがよってスカートのようであった。 

日本語ができる者が「あなたたちは西洋のキリスト教の者か?」と尋ねると、皆が「ヤヤ(耶耶)」と言い、韓国を指してどこかと尋ねると「高麗」と言い、本島を指してどこかと尋ねると「オジル島」と言い、中国の本土を指してどこかと尋ねると「大明」とも「大邦」とも言い、西北を指してどこかと尋ねると「タルダン」と言い、正東を指してどこかと尋ねると「日本」であるとも「ナンガサッキ(カ可朔其)」とも言ったが、続けて尋ねると「ナンガサッキ」と言った。」とある。 

朝廷では彼らにソウルへの上京を命じた。 

彼らは訓練都監に編入したが、銃砲を撃つのが上手であった。 

また、笛を吹く者や足を動かして踊りを踊る者もいた。

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