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1653年8月15日から16日の早朝の間に、済州島の大也水(テヤス)の辺に漂着したハメル一行は、船員64人中の36人が生き残った。 

彼らはその翌日の8月17日の正午頃に済州島の住民に発見され、夕方には100人以上の人たちに囲まれて監視された。

8月18日には、約1~2千人の済州島の軍人たちが彼らの周囲に配置され、続いて彼らの一部が朝鮮側の指揮官に尋問を受けた。  しかし、意思疎通が難しかったために、朝鮮側は特別な情報交換や難破の理由などについて知ることができなかった。


8月19日には朝鮮の人々により、難破船Sperwer号の貨物を陸地に移して日光で乾かす作業が進められ、金属が付いている木材を焼くのに忙しかった。 

当時の済州島の牧師は李元鎭(イ・ウォンジン)、判官は?錠(ノ・ジョン)、大靜縣監は權克中(クォン・クッチュン)であったが、この中で判官の?錠と大靜縣監の權克中が現場を監督していた。 

その日、ハメル一行が岩の隙間から発見したぶどう酒を彼らにあげると、非常に満足して友好感を示したとハメルの報告書に記述されている。 

8月20日も前日と同様に木材を焼く作業が進められたが、その途中で火薬が爆発し朝鮮側の指揮官や兵士たちが逃げ出す事件が発生した。しかし、ハメル一行がもう爆発しないと手振りで説明すると、作業を続けた。 

8月21には、朝鮮側の指揮官がハメル一行と何人かの人々を呼んで、テントの中にある一行の荷物を封印するように命令した。しかし、少しするとハメル一行の荷物を盗もうとした何人かの人々が捕まり、朝鮮側の指揮官はハメル一行の目の前で彼らの処罰を命じた。彼らの一部は、足の裏を打たれて爪がはがれた者もいたという。 

正午頃にハメル一行に出発命令が下され、馬に乗れる者には馬が与えられ、 負傷して乗れない者たちは乗り物に乗って移動した。

夕方頃に大静に到着しそこで休んだのであるが、この日ハメルは約4マイル旅をしたと記述している。

8月22日の朝には再び馬に乗って出発し、ある城塞の前で朝食を取ったが、そこには2隻のジャンク船(兵船)が碇泊していたという。 

午後に済州牧に到着し、済州牧の建物(現在の觀コ亭)の前で済州牧師の李元鎭の尋問を受けたが、やはり意思疏通ができなかった。 

しかし、李元鎭はハメル一行が「日本の長崎」と言うとその言葉は理解したと記述している。ここで一行は尋問を受けて、王の叔父(光海君)が配流された家で暮すようになった。

『ハメルの報告書』の8月22日の記録によると、朝、馬に乗って出発してある城塞の前で朝食を取ったと記述されている。

その城塞は明月鎭(城)である。そこは早朝に大静県を出発して朝食を取ることができる距離に位置しており、実際に『耽羅巡?圖』の「明月操點」によると、船舶が碇泊することができる施設もあった。 

従って、ハメル一行が大静県から済州牧に移動する時に利用した道は、大静県→明月城→済州牧であることがわかる。

 

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