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HOME > ハメル情報館 > 漂着と濟州生活 > 17世紀の朝鮮の?況



朝鮮は、1592年に発生した豊臣秀吉の侵略戦争である「文禄の役」と「慶長の役」により、国土が荒れ果てていない所がないくらいに荒廃していた。 

前後7年間に渡ったこの戦争は、人々を塗炭に追い込み、政治・経済・文化・社会・思想など、各方面に渡り朝鮮政府に深刻な打撃を与えた。 

従って、日本の敗戦後の政府の官僚たちの急務は、戦乱による文物の破壊や財力を克服することであったが、政治・軍事的な面では備辺司の役割が強化され、訓練都監を始めとした軍事機構の改編も開始された。

 しかし、戦争の傷が癒される間もなく、国内では仁祖反正の論功行賞問題で 「李?の乱」が起った。

このような混乱は、引き続く女真族の侵略で更に朝鮮政府を混乱させ、倭乱による傷跡はほぼ復旧が難しい状況に至った。即ち、明の弱化に付け込んで立ち上がった後?が朝鮮を侵略して、丁卯胡亂(1627?)と丙子胡亂(1636?)を起したのである。

その結果、朝鮮は清の朝貢・册封体制の中に包括され、それを始めとして東アジア圈で漢族の代りに女真族が政権を握る、いわゆる明・清の交代が生じて新しい国際秩序が編成されたのである。 

その後、仁祖の後を続いて即位した孝宗は、趙挺と宣王の屈辱を払うために北伐計画を推進し、それを何よりも重要な対外政策の1つとして強力に主導した。 

そして、北伐政策が強化されるにつれて、軍事力増強のための朝鮮の兵器改良は何よりも急務として浮上し、外来の先進的な技術の導入を必要とするようになった。 

そのような状況の中で、1627年に朝鮮に漂着した朴淵(パク・ヨン)と同僚2名は、清の第2次の侵入である「丙子胡亂」の時に戦闘に参戦し、同僚の2人は戦死して朴淵だけが生き残った。 

朴淵は訓練都監に配属されて、西洋式の新式武器の開発に関与し、朝鮮の武器の発達に貢献した。 

1653年に済州島に漂着したハメル一行も、やはり訓練都監に配属された。最初に訓練都監にハメル一行を配属させた理由は、朴淵と同様に彼らを軍事力増強の側面で利用しようとしたためである。

 

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