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1657年にハメル一行が初めて兵營生活を始めた時には,全員が一獅ノ住める田舍家を準備してくれたという記述がある.
兵營に到着して3日後には,先に他の都市に送られた殘りの3名も合流して33名が一獅ノ生活した.

 では,ハメル一行はどこで住んだのであろうか?
今でも兵營地域の住民たちの間では,いちょうの木の近くに自分たちとは違う姿の人 が住んでいたという話が えられている.
その話から,ハメル一行が兵營で住んだ所は,天然記念物第385 の兵營面のいちょうの木の近くではないかと推測している.

 1653年に漂着した彼らは,約4年後の1657年には?に朝鮮語が上手になっていたと思われる.
兵營の住民たちや,近所の和?たちに自分たちの冒險談を話すほどの話上手となって收入を得たとハメルの記?にはある.彼らは住民たちと意思疎通が可能なくらい朝鮮の生活に慣れていたのである.

 また後に,麗水(ヨス),順天(スンチョン),南原(ナモン)に分散收容處置が取られて兵營を發つ時の記述を見ると,「別れることが非常に悲しい.なぜならば,ここでは家財道具と小さな庭園のある家で住み,この國の基準に合った全ての物を備えたのに,今までの大きな努力の成果を全て捨てていかなければならないからである.これらの物は,今のように大 な時期には容易に取り えられるものではなかった」と,その時の心情を表している.  短期間とは言い難い7年間の兵營生活で,彼らは家具や道具などを取り え,家を住みやすくし,花壇式の庭園を作るくらい生活が安定していたと思える.
濟州島やソウルでのは,監視と統制の中での生活であったが,ここでは行きたい所があれば兵使の許可さえあればどこにでも行け,ある程度の自由のある生活をしたと思われる.

 道先で素敵な草花を見つけると,それを家の庭に植えて花壇を作ったり,野菜を育てたりもし,近所の住民たちのように犬や鷄のような家畜も飼ったであろうと推測される.

 納屋のような空間で椅子やテ−ブルなどを作って利用したり,村の人 から學んでわらじを直接に編んでみたりもし,薪を刈りに行って丸太でオランダの靴に似た靴を作ったり,彼らの國で使い慣れた道具を 用して生活道具を作ってもみたはずである.

 ソウルで騷動を起こしたために,康津の兵營に配流された立場であったので,一行が住んだ家は瓦屋ではなくわら屋であった可能性が高い.なので,秋には腐っていくわらの屋根を取り替えなければならないので,わらを得るために近所の農家に行って仕事を手 ってわらを得て,編んだわらを屋根にのせる作業も自らしたことであろう.

 ?親切な司令官が來ると,無料でもらえた薪を直接に準備しなければならなかったために,ハメル一行は寒い冬を乘り越えるために,兵營を んでいる修仁(スイン)山に登って薪を刈って家の隅に積んでおき,かまどで薪をくべてオンドル部屋で生活したことであろう.
オンドルが固いのでベットが思い出されたであろうが,司令官の命令で兵營城?の草を刈ったり,雜用をしてきた疲れた で暖かいオンドルの上にになった時には「こんな時にはオンドルが最高だ」と思いはしなかったであろうか?.

韓國の家についてのハメルの表現を借りれば,
「部屋の床の下の部分にオ−ブンのようなものがあるが,寒い冬にはいつも火を焚いて暖かくした.それは部屋というよりは暖爐のようで,床には油紙が敷かれている」
と,オンドル部屋を描寫している.
彼らの中には,オンドル文化に慣れずに?便でベットを作ったりした者もいたはずである.

 また,家の周 には垣根や を積んで,外部の人 の視線を遮っていたのであるが,今でも兵營には他の地域では見れない櫛目文樣の がある.多分,ハメル一行がオランダ式に積んだ石垣の方式を今も活用しているのではないかと推測されている.

 1663年3月の麗水,順天,南原への分散配置命令により,慣れない所で,その上續く凶年で苦しかった時期に,このように苦勞して作り上げた家と情のいく近所を後に發たなければならなかったハメル 時の悲しみが,少しずつ わってくるようである.


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