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●全羅兵營は康津の?史の始まり


 全羅兵營が設置された康津(カンジン)地域は,先史時代から多樣な遺跡と遺物を殘し,史的に發展し續けてきた.
  石器時代と新石器時代の遺物はまだ發見されていないが,ドルメンを殘した銅器時代の人 は,後に兵營が設置される兵營面(ピョンヨンミョン)を始めとして,康津のあちこちに生の基盤を準備した.


 銅器の代りに鐵器文明を發達させた集 たちは,馬韓を中心に小國を形成したが百濟に吸收された.その過程で兵營地域は,百濟の道武(トム)郡と改名されたが,高麗時代には再び道康(トガン)郡に改編された.一時,道康郡は靈岩(ヨンアム)郡の管轄になったが,道康縣として獨立して朝鮮時代へと續いた.
 今日の康津は,朝鮮時代の太宗17年(1417年)に行政區域となってから始まったといえる.

そして,道康と耽津(タムジン)を康津縣に?合した.
 康津縣の形成は,全羅兵營と密接な關連がある.高麗末から續いた倭寇の侵略を 果的に防御するために,光山縣(クァンサンヒョン)に設置された全羅兵營を道康に移して康津が誕生したのである.こうして50余郡縣の兵權を掌握して,全羅道の軍事權を統括する指令部としての機能を果たす全羅兵營と康津の?史が始まったのである.




●全羅兵營の設置背景


 全羅道の防御の據点であり,また陸軍の總指揮部である兵營は,1407年に初めて光山縣(クァンサンヒョン 今の光州(クァンジュ))のコネ山城に設置されたが,太宗17年(1417年)に現在の位置である康津(カンジン)に移設され,1895年(高宗32年)の兵制改革で廢營されるまでの500余年間を全羅道の陸軍の總指揮部として朝鮮の數多くの苦難と史を秘めた由諮[い所である.
 その過程については正確にはわからないが,太宗は1417年1月に全羅兵營の移設地を普く探させ道康縣に定めた.
道康(トガン)は康津の高麗時代の名 である.



- 果的な倭寇の防御のための沿海地域

兵營が海に隣接した道康(トガン),?ち,康津(カンジン)に移設した理由は,何よりも倭寇の防御に關連していた. 高麗時代の末から,西南海岸一帶を侵略してきた倭敵を 果的に防御するためには,沿海地域に軍事力を集結する必要があった.


朝鮮時代の始めに積極的に懷柔政策を行ったにも關わらず,倭寇による被害が引き續いたために,太宗台には?陸と海岸の軍事施設を集中 ?化する一方で軍事制度を整備して積極的に倭寇の侵入に備えた.


この過程で,全羅兵營城も海岸に隣接した康津に移されたのである. - のろし台がある要塞地
 康津(カンジン)には,要塞地として修仁山(スジンサン)に山城が築かれていた.修仁山城は高麗時代に築城されたが,高麗時代末の倭寇の侵入が非常に多かった時には入保(イッポ)山城として住民たちの非難所として利用された.


修仁山城の頂上には修仁山ののろし台があり,侵入する敵を發見して兵營に 達することができる 制を備えており,また近隣の野原はよく肥えており兵營には天惠の條件であった.


- ?史的に郡單位級の城が位置

 兵營が位置する地域は,元 は道康縣(トガンヒョン)の治所であったという点も考慮したものと思える.
道康縣は,高麗時代の行政區域の改編により縣に降任されたが,三國時代には百濟の道武(トム)郡であり,統一新羅時代には陽武(ヤンム)郡として郡單位級の行政區域であった.道康縣の治所であったために,前の時代から修仁(スイン)山城のような戰略的な防御施設があり,兵營が移されて?存の道康縣を搨zまたは補修して兵營城として使用したものと推定される.



●全羅兵營城の設置と維持


 全羅兵營の康津(カンジン)への設置は,朝鮮時代の地方軍制の整備と密接に關連している.
 朝鮮王朝は,國家 制を裝備しながら高麗の軍事的な遺制をC算して,道別に 2-4の陣を設置して僉節制使が付近の兵馬を統括する營鎭 制を作った.


 最初に營鎭 制を取った全羅地域は,光山縣(クァンサンヒョン:光州 松汀洞の付近)に兵營を設置し,4つの陣が隷下に屬していた.しかし,沿海地域の倭寇の防御のために水軍鎭營が海岸側に移動して再整備され,最後には陸軍と水軍の協力により倭寇の防御の?化のために全羅兵營が康津に移った.

 康津の全羅兵營城は,兵營設置 時に兵使の馬天牧(マ チョンモク)により築城された.

1555年の乙卯倭變を て兵營城は危機に處したが,その時の破損被害は南致勤

(ナン・チグン)兵使によって復旧されたが、その後、不意の火災により再び焼失した。 しかし、全面的な修造が成され、『全羅兵営重創記』によると、1,800名以上(3分の2は僧侶たちであった)の人員を動員して総96間の建物を完成し、面目を一新して文禄の役と慶長の役を迎えたという。

兵営が康津に移ってから、その不合理さを論ずる主張が続いた。主に地理的に問題となったのであるが、強力な倭寇防御の必要性のためにその主張は受け入れられなかった。 

その間、地方軍は都節制使の営と僉節制使の陣を核とする営鎮体制を維持し、内陸防御を強化する鎮管体制の下で更に組織化した。 

 鎮管体制下でも相変わらず防御の中心は沿海岸にあったので、内陸強化のために兵営を光州(クァンジュ)や羅州(ナジュ)、潭陽(タミャン)に移さなければならないという論議が起った。それは水軍陣のみならず、大部分の陸軍陣も海辺の近くに配置されていたので、それらの地域が崩れれば内陸が崩れることになるからである。



 實際に兵營が1度移設されたが,それは文祿の役の直後の宣祖32?(1599年)に軍制の整備過程で長興(チャンフン)に移設されたのである.
しかし,地方民たちとの對立があり,6年ぶりに再び康津に った.長興の人 の度重なる抗議に對する苦痛と,?歸を望む兵營の人 の心情が受け入れられたのである.

 その後にも,地域防御に關心を持つ一部の爲政者たちの兵營移設論議が續いた.
海南(ヘナム)出身の?達運(オ タルウン)と茶山 丁若(チョン ヤクヨン)の主張がそうであった.?達運は,潭陽,光州,長城に移すことを主張したが受け入れられなかった.

 洋亂の後,長い間外勢の侵入がない平和?態が續き,兵營移設問題よりはむしろ?部の政治や社會 動に對する對 が急がれ,地方軍營は?存の を維持し續け,全羅兵營は廢止されるまで康津にあった.



●沿革


1417年(太宗17年)2月 光山縣から現在の兵營に移設
1417年(太宗17年)4月 築城及び初期建物の建立
1457年(世祖3年) 完成した鎭營疜制に關連して兵營城の移設論議
1555年(明宗10年) 達梁鎭事択(乙卯倭變)で兵使と長興府使が殺害され῀靈岩郡守は捕虜となり兵營城はほぼ廢?となる
1555年(明宗10年) 南致勤兵使により一部修造
1580年(宣祖14年) 御間῀兵營城及び建物の修造(69間)
1592年~1597年 文祿の役῀慶長の役
1599年(宣祖32年) 長興邑城に兵營を移設
1604年(宣祖37年) 再び現在の兵營に移設
1634年(仁祖24年) 鎭南樓を建立
1652年(孝宗4年) 鎭南樓を修造(虹霓門を造成)運籌軒῀敵萬軒を建立
1656年(孝宗8年)3月 ハメル一行が全羅兵營に移送
1663年(孝宗15年)2月 ハメル一行が兵營を發ち῀全羅左水營῀順天῀南原に別れて移送
1688年(肅宗14年) 燕喜堂を重建
1702年(肅宗28年) 共武樓の三門を建立
1732年(肅宗58年) 應酬堂を建立
1745年(英祖21年) 制勝樓(運籌軒の外三門)を建立
1768年(英祖44年) 客舍のC心閣を望美樓に改名鎭南樓を改築
1744年(英祖50年) 運籌軒を修造
1779年(正祖3年) 共武樓を重建
1791年(正祖15年) 共武樓が台風で倒壞
1802年(純祖2年)

共武樓を復元

1851年(哲宗2年)

燕喜堂が不意の事故で火災、重建

1894年(高宗32年)12月10日 東學農民戰爭で陷落῁城?の官舍や付屬の建物῀周浀の民家が燒失
1895年(高宗33年) 廢營


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