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●濟州島の大也水のほとり


台 を發ち日本に向かったSperwer は,4日間の嵐の果てに濟州島を發見し,錨を下げて船の方向を えた瞬間に船が暗礁に乘り上げて難破した.
1653年8月16日の早朝のことであった.
 大也水のほとり,?ち,現在の南濟州郡シンド里の海岸の一帶に漂着したハメル一行は,64名中の28名が死亡し,36名が生き殘った.
住民たちに發見された彼らは,1-2千名以上の兵士たちに包 されて,分け えられた食べ物で何日かを過ごし,濟州牧官衙に護送された.難破船の漂流物も取り除かれ封印されて移された.

 濟州島の漂着地と推定される大也水のほとりは,現在の南濟州郡シンド里の海岸であると言われる.

●濟州牧官衛


 濟州牧官衛に到着したヘメル一行は,濟州牧使の前に連れていかれ事情調査を受けた.
 時の濟州牧使の李元鎭(イ ウォンジン)は,彼らをあわれに思い食糧を配給し,また長崎やソウルに送還するために努力した.
 李元鎭牧使の任期が終わり新しく赴任した總督が來てからは,ハメル一行は外出と食糧が統制された.
その後,1656年3月にソウルに移送されるまで,1年9ヶ月間を濟州島で過ごした.

 現在,濟州牧官衛は觀コ亭を含む周 の一帶に分布しており,1993年3月30日に國家指定史跡の第380 に指定されて管理されている.
* ホ−ムペ−ジ : http://mokgwana.jejusi.go.kr

●海南


 ソウルに向かうハメル一行は,船を奪って逃げ出すことを防ぐために,一方の手足を柱に結ばれて4隻の船に分けて乘せられた.
しかし,2日が過ぎても逆風が吹いていたために再び收容所に送られ,4,5日後に順風が吹いたので,再び船に乘せられて以前のようにしっかりと手足を結ばれて監視された.そして,錨が上げられて航海が始まった.ハメル一行はその日の夕方頃に本島に到着して,錨が下ろされた.
 ハメル一行は,翌日の朝に船から降りて海岸沿いに連れていかれた.彼らはそこで軍人たちの嚴しい監視を受けた.
ハメル一行は,その翌日に馬に乘って海南(ヘナム)に到着した.
夕方頃には,各 他の所にいた一行36名が集まった.

●靈岩-羅州-長城-笠岩山城-井邑-泰仁


 食事を取った後に馬に乘って海南(ヘナム)を出發したハメル一行は,その日の夕方に靈岩(ヨンアム)に到着した.
そこで,船が難破した後からずっと 調がよくなかったプルメランド出身の砲手のパウルス ヤンス ク−ルが亡くなった.その翌日には靈岩郡守の命令により一行の目の前で彼を埋藏し,葬 を終えると再び馬に乘って出發して,夕方に羅州(ナジュ)に到着した.

 翌日,彼らは再び出發して,その日の夕方に長城(チャンソン)で夜を過ごし,朝には再び出發した.笠岩山城(イバムサンソン)という非常に高い山にある城を通過して,井邑(チョンウッ)に到着して夜を過ごした.そして,翌日の朝に出發して,その日に泰仁(テイン)に到着した.

●金溝-全州-?山


 ハメル一行は,泰仁(テイン)に到着した翌日の朝に再び馬に乘り,正午に金溝(クムジュ)という小さな村に到着した.そこで晝食を取った後に再び出發して,夕方頃に全州(チョンジュ)に到着した.
全州は,後百濟の甄萱が都邑に定めた所で, 時には全羅道の觀察使が住んでいた.
翌日の朝に全州を發ち,夕方に全羅道の最後(最端)の村である?山(ヨサン)に到着した.


●恩津-連山-公州

 ハメル一行は?山(ヨサン)で夜を過ごし,翌日の朝に再び馬に乘って移動し,夕方には忠C道の恩津(オンジン)に到着した.
翌日は,連山(ヨンサン)で夜を過ごして,その翌日の夕方に公州(コンジュ)に到着した.
 時の公州には忠C道の觀察使が住んでいた.

●ソウル

 
 ハメル一行は,公州(コンジュ)で夜を過ごした翌日に大きな川を渡り京畿道に入った.
再び何日かを旅して,樣 な郡や村で夜を過ごして,ついに大きな川を渡った.その後,何マイルかを馬に乘り續け,大きな城に まれている漢陽(ハニャン=ソウル)という所に到着した.そこは王が住む所であった.
 ハメル一行は,漢陽に到着すると1つの宿泊所で2~3日間過ごした.
その後は,1件の家に2,3名ずつ分かれて中國人と共に生活した.
ハメル一行は訓練都監に配置され,各 1ヶ月に米を70斤ずつを代 として受け取りながら王の護衛部隊で勤務した.
 1665年3月にCの使臣が漢陽を訪問した時に,一行中のHendrik JanseとHendrik Janse Bosが使臣が乘った馬の頭をつかみ騷動を起こした.
ハメル一行はその騷動の後には,Cの使臣が來るたびに家に監禁されたり,何人かは他の所に移送されたが,1656年3月初旬に全羅道の兵營城に配流された.

●康津の全羅兵營


1656年3月からハメル一行の全羅兵營城生活が始まった.
13年と28日の朝鮮生活の中での大部分である7年を,康津(カンジン)の兵營で過ごした.
從って,ハメル一行が見聞きし, 驗して記?した朝鮮の姿は,大部分が兵營生活の中で 得したものであると推定される.

 ハメル一行は,司令官が代わるたびごとに彼らへの待遇も代わったので,必要なものは自分たちでどうにかしなければならなかった.
薪を得るために山に行ったり,物乞いをして寒さを凌ぐために必要なものを買った.
 また,何人かは結婚して家庭を築き,生計を立てるために雜役をしたり,オランダ式の生活用品を作って賣ったりもした.
 また,ハメル一行は和?たちと特に仲がよかった.和?たちは非常にェ大で,他の國の風習を喜んで聞いたので,仲よく過ごすことができた.
 1660年からは非常に嚴しい飢饉が續いた.1662年までの3年の間,凶年が續いて多くの人 が飢え死にした.王の收入から支給されていたハメル一行の手 ても,食糧が?足するに從い支給が嚴しくなり,1662年2月の末に彼らを他の3つの郡に分けて配置するようにとの命令が下された.
そのため1662年3月の初旬に,靈水(ヨス)に12名,順天(スンチョン)に5名,南原(ナモン)に5名に分かれて分散收容された.

 現在,康津の全羅兵營城址は?元事業が進行中であり,ハメルが住んだ所と推定される櫛目文の石垣などの跡形がまだ殘っている.

●麗水/南原/順天


 康津(カンジン)の兵營城生活の7年目に入ると,引き續く飢饉により食糧が?足して,ハメル一行は1663年3月の初旬に麗水(ヨス),順天(スンチョン),南原(ナモン)に各 分散された.
 時,健康であった22名中の12名は麗水に,5名は順天,5名は南原に割り てられた.
 ハメル一行の生活は,指揮官の交代により喜悲こもごもであったが,國民の信任を得たくらい思いやりがあり情け深いイ ドビンのような水使は,ハメル一行も好意を抱いた.
1665年には小さな船を得て,食糧を得たり?出するチャンスを探して島のあちこちを回って見ることができた.
ついに1666年9月4日に,2倍の値段で手にした船で一行中の8名が?出に成功した.



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